高齢化住宅に必要な3つの視点-3
第3章:「木(無垢材)」の香りと触感が脳を活性化し、認知症を予防する
五感を心地よく刺激することが、脳の老化を防ぐ
認知症の予防、あるいはすでに認知症を発症している方の周辺症状(精神的な不穏や徘徊など)の緩和において、近年「環境心理学」や「臨床医学」の分野で最も注目されているのが、「五感(視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚)への心地よい刺激」です。
人間は、変化のない無機質な空間に長時間閉じ込められると、脳への刺激が極端に減少し、認知機能の低下が加速することが分かっています。現代の病院の無菌室のような白いプラスチック建材に囲まれた部屋は、一見清潔ですが、脳にとっては「飢餓状態」に近いストレスを与えている可能性があります。
ここに「本物の木(無垢材)」を持ち込むと、空間の質は劇的に変化します。木目は「1/fゆらぎ」と呼ばれる、自然界特有の不規則で心地よいリズムを持っており、目で見るだけで視覚的なストレスを和らげます。しかし、それ以上にシニア世代の脳にダイレクトに作用するのが「嗅覚」と「触覚」です。
嗅覚(フィトンチッド)がもたらす睡眠の質向上と脳のクレンジング
木材、特に杉や檜(ひのき)の無垢材からは、清々しい独特の香りが漂います。これは木が自身を守るために発散する揮発性成分で、「フィトンチッド」と呼ばれています。
フィトンチッドを人間が吸い込むと、自律神経のバランスが整い、交感神経の興奮が抑えられて副交感神経が優位になります。ストレスホルモンである「コルチゾール」の分泌量が劇的に減少することが実験でも証明されており、まるで森の中にいるかのような深いリラクゼーション効果をもたらします。
この効果が最も発揮されるのが「睡眠」の場です。寝室の床や壁、天井に無垢の木をあしらうことで、不眠に悩むシニア世代の睡眠の質が劇的に向上します。夜、途中で目が覚めることなく、深い睡眠(ノンレム睡眠)をしっかりと確保できるようになると、脳内では非常に重要な作業が行われます。アルツハイマー型認知症の原因物質とされる「アミロイドβ」などの脳内の老廃物は、人間が深い睡眠をとっている間に、脳脊髄液によって洗い流される(クレンジングされる)仕組みになっているのです。
つまり、木の香りに包まれてぐっすり眠ることは、単に「あぁ、気持ちよく眠れた」という感想以上の、医学的な認知症予防アプローチそのものなのです。
触覚(足裏)から入る膨大な情報が、脳を覚醒させる
次に「触覚」、特に「足裏からの刺激」について考えてみましょう。足の裏には、体中のどの部分よりも多くの神経終末(センサー)が集中しています。
一般的な合板の複合フローリングは、薄くスライスした木を接着剤で何層も重ね、表面を硬いプラスチック樹脂でコーティングしたものです。冬場に触れると氷のように冷たく、夏場はペタペタと張り付きます。シニア世代はこの冷たさを嫌い、家の中でも厚手の靴下やスリッパを履きっぱなしにすることが多くなります。これでは、足裏のセンサーは完全に遮断されてしまいます。
一方、地元の山で育った杉のような針葉樹の無垢材は、細胞の中にたくさんの空気を含んでいるため、まるで天然の断熱材のような温もりを持っています。冬でも素足で触れて「ヒヤッ」とすることがありません。木肌は適度な凹凸があり、柔らかく、足裏にしっとりと馴染みます。
素足で無垢の床の上を歩くとき、足裏のセンサーからは「温かい」「柔らかい」「さらっとしている」「適度な弾力がある」といった膨大な情報が、リアルタイムで脳へと送り続けられます。この絶え間ない微細な刺激が、脳の頭頂葉(感覚を司る部分)を刺激し、脳全体のネットワークを活性化させて老化を防ぎます。
転倒を防ぎ、おだやかなコミュニケーションを生む床
さらに、無垢の杉材などが持つ「適度な柔らかさ」は、フィジカルな面でもシニア世代を強力にサポートします。
硬い合板フローリングやタイル床は、歩行時の衝撃がそのまま膝や腰、脊椎へと響き、長時間の歩行で関節痛を引き起こす原因になります。また、表面が滑りやすいため、靴下を履いていると余計に転倒の危険が高まります。これに対し、無垢の床は歩行時の衝撃を適度に変形しながら吸収してくれるため、関節に優しく、シニア世代が「家の中を億劫がらずに、たくさん歩き回ろう」という意欲を湧かせます。表面が滑りにくく、万が一転倒してしまった場合でも、その衝撃を和らげるクッションの役割を果たします。
ある高齢者福祉施設で行われた興味深い調査があります。それまでビニール床タイルだった共用スペースの床と壁を、全面的な無垢材の木質化へとリフォームしたところ、入居者たちの行動に明らかな変化が見られました。以前よりも部屋から出てきて長い時間を共用スペースで過ごすようになり、お互いに笑顔で会話を楽しむ時間(コミュニケーション)が劇的に増えたのです。周囲の環境が攻撃性を和らげ、心を穏やかに開かせる力を持っていることの証明です。
地元の本物の木を使って家を建てる・直すということは、単なる贅沢やノスタルジーではなく、住む人の脳と身体、そして心の健康を維持するための最も合理的で優しい選択なのです。


